磯部豊次夫妻
波多野秀光墓所

付近住所 朝来市山東町新堂


磯部甚太夫豊次夫妻之墓
諸記録を以って案ずるに磯部甚太夫豊次は山名上総介康熈の四男にして、夜久野城主磯部兵部大輔豊直の弟なり。幼少にして出石城主山名祐豊に托され波多野秀光に扶養さる。長じて野間館主となり秀光の娘 良を室となし山名氏麾下の一将としてその名を挙ぐ。天正5年豊臣秀吉の但馬侵攻に際しその軍門に降り姓を磯部氏と改む。山名氏の滅亡するや野間に閑居して自適す。元和元年、大坂の役起るも病躯の故に参戦せず一子新右衛門を出陣せしむ。新右衛門その首領南条中務の非望を忌みて但馬に帰る。後、福知山藩有馬侯に仕え、有馬氏の久留米に移封さるるやこれに従ふ。即ち久留米磯部氏の祖にして爾後、代々藩に重きをなし家名を博す。豊次夫妻野間に風月を友として生をおくる。
豊次の室、良 寛永13年12月他界す。戒名 水岩妙波禅定尼 豊次 寛永20年1月妻の後を追ひ永眠す。戒名 伝徳宗正居士

波多野軍曹秀光之墓
諸書を以って案ずるに波多野秀光は天文5年、波多野秀行を父として因幡国八東郡高平城に生を受く。永禄2年(1559)4月、兄高平城主秀真丹比孫之丞に謀殺され落城するに及び秀光、難を避け縁を辿りて但馬国出石城主山名祐豊に仕ふ。
秀光もとより勇猛にして智謀の士、特に砲術に長じ歴戦大いに其の名を挙ぐ。わけて元亀2年の丹波国山垣合戦には鉄砲を以て、山名の危急を救ひたる武勲によって祐豊より感状並びに鉄砲を授與され武名を博すると共に多年の功労により磯辺庄100石を知行し居を大内村にさだむ。時に祐豊の一族、山名上総介康熈悲運に在り、二児の将来を祐豊に懇請す。祐豊、秀光にその扶育を托す。秀光、二児を守りてこれ努めその長ずるや兄豊直を夜久野城主に、弟豊次を野間館主に据え以て依命を果たす。更に娘、良を豊次の室に配し益々その大成を扶く。
天正8年、出石城落城、山名氏滅亡するに当り秀光致仕大内村に閑居、帰農し風月を友とし医を創して家業となす。秀光長男、畏三父業を継ぎ爾今、代々医家としてその名あり。寛永3年10月1日秀光、波瀾万丈の生涯を閉づ。戒名 月清宗光居士 行年90才